赤はまさに赤となり

 今日はこれに。
 http://town.sanyo.oni.co.jp/kikaku/chagall/pc/
 
 シャガールの絵を通して、赤はまさに赤となり、青はまさに青となる。作品を生で観ることでしか味わえない色の神秘。
 上記URLにもあるけれど、《空飛ぶアトラージュ》(1945年)が特に良かった。戦争期の作品は、他の作家・ジャンルの創作物も含めて、非常に興味深い。


 
 余談だけども、グッズ販売コーナーにはやはり圀府寺先生の最新のご著書が。先生の低音ボイスが思い返され。

ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか? (阪大リーブル)

ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか? (阪大リーブル)

China Town

 横浜中華街ではこちらにお世話になった。
 接筵(地図/写真/横浜中華街/中華料理) - ぐるなび
 名物スープチャーハンと水餃子を食べたのだが、とってもおいしかった。店に通いたくなる味。
 

 そして、約7年ぶりに関帝廟に行った。
 高校の修学旅行の最終日は、横浜中華街だった。関帝廟の正面階段を下りてゆくとき、当時の記憶がまざまざと蘇った。

横浜美術館特別展より

 横浜美術館で観たのはこれである。
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 非常にポップであるというのが全体を通しての印象である。展示の前半は彫刻、後半は絵画やスケッチといった類であるが、中盤には作者のアトリエを再現した空間もしつらえてあって、そこにかかっていた一枚の大きな絵にはとても惹かれた。タイトルは忘れた。
 作者の描く少女たちは、その透明感とうらはらに常に何かをかかえている。かかえたままで、われわれをまっすぐに見つめてくる。彼女たちはわれわれ自身なのかもしれない。


 作者のアトリエを再現した展示室2には、とても背の低い入口が特別に設置してあって、それはおおよそ150cmくらいなのだけれど、大人は当然に身をかがめなければ入れない。ところが、こどもは、そのままで入ってゆける。
 こどもになるということ、こどもであるということ、自由であるということ。
 大人はなにかしら不自由をしなければ閉ざされたままだ。

旅を終えて。

 お盆休みは横浜と鎌倉に行ってきた。
 渋谷、みなとみらい、横浜美術館、赤レンガ倉庫、神奈川県庁付近、新江ノ島水族館鎌倉大仏小町通り鳩サブレー本店、横浜中華街、関帝廟。ざっとこんなものだろうか。



みなとみらいな風景。



 新幹線の中で、同時に、『芸術作品の根源』も読み深めることができた。ただ、おもうにハイデガーの思索を自分のことばで後追いすることは、しょせん彼の「詩作」のコピーに過ぎないのではないか。彼の用いるユニークな用語とその斬新な概念の前衛性にからめとられて自分のことばでまとめるということが非常に難しい。もしできることがあるとすれば、それはおそらく注釈ということである。しかしそれはハイデガーの専門家の負うべきところであろう。
 かくして、再び僕は立ち止まる。

存在は包み込みを内在している。

 中古レコード屋で見つけた逸品。

マーラー:交響曲第9番

マーラー:交響曲第9番

 とてもあたたかい。特に弦。
 
 第4楽章はいつも「どれくらい僕をやさしく包み込んでくれるか」という観点で聴いてしまっている。包み込むやさしさ。あたたかみ。



 存在と包み込みをからめて色々考えられないものかなと直感的に直観的にしたのだが果たして。

ほも

 そのものが「現にそこに在る」ということを記述しようとおもったら、内的なベクトルのせめぎ合いを、恒常性(ホメオスタシス)にまつまる二極のせめぎあいを、述べるしかない、のではないか。
 そういう暗黙のテーゼを前提すれば、ハイデガーの言っていることすべてすんなりと理解できるのだが。
 
 生物Ⅰで学んだホメオスタシスという概念、なにかにつけて有用だとおもうのであります。まだしっかりとは言葉にできないけれども。