ブログの移行

 このブログは、ちょうど2年前の今ぐらいの時期で、その時間を止めている。
 この時期ぐらいから筆者(当時は新卒会社員)は仕事に追われ、ブログを書く余裕を失ってゆく。そうこうしているうちに大阪への転勤が決まり、そして去年の秋の終わりくらいからブログを再開するのだが、こちらへとシフトすることとなった。

 http://bachundbruckner.blog.fc2.com/

 ここはここで、そのまま留めおきたい。

dichten und denken

 なんだかほんと、ハイデガーの用いることばってすごく詩的。

 たくさんの意味連関すべてを鳴り響かせるようにして、決して語りつくすことのできない >> Sein << について思索すること。それがハイデガーの挑戦したこと。

 

 詩において、世界と大地が生き生きとしたダイナミズムを繰り広げるとしたら、音楽においては、ディオニュソスが狂騒の宴を楽しみ、そして一方では故郷の夜の森で闇に「包ま」れる?

安らう

 ブルックナー交響曲を形容するのに、ゴシック建築だとか、ブロックを積み上げてゆくようだとか、植物的だとか、いろいろあるけども、要するに、「そこに安らってある」ということなのではあるまいか、という気がしてきた。
 ディオニュソスとしてではない、音楽の在り方を象徴的に表象している、という見方がもしできるとするなら、より精緻にみてゆきたいものだ。

『詩人になるのでなければ何にもなりたくない』

 ヘッセはそうしてドロップアウトして、 彼は大成した。


耳を研ぎ澄ますということは、母親の身体の中にいるということであり、夜闇の中にいるということであり、森の中にいるということであり、そこに属するということである。(bachundbruckner)


 そこでの明るみ(Lichtung)は、すなわち存在(Sein)の空け開け(Lichtung)ということになろうか。


 ハイデガーもすぐれて詩人であります。

『夏は老け』

 9月になった。

 世界の色褪せと疎外感がいよいよ増す。ゲームで気を紛らわせるのが今は一番の薬。そうでなくとも食欲と睡眠欲と性欲に支配される日々。

 


 以下、どうでもいいこと。





  ① AはBを聞く(聴く)

  ② AはBに属する


 中世のドイツ語(中高ドイツ語)において、①と②の述語にあたる部分はどちらも"hoeren"という動詞で表していた。格や前置詞で①の意味になるか②の意味になるかは容易に判断できるが、音声および表記としてはどちらも同じであった。



 ①と②のそれぞれの主客の関係をきちんと整理することで何か見えてきたりはしないだろうかというのが目下の思索。臨床哲学の分野ではないところで『聴く』ことを見なおしてみたい。




 胎児が母親の胎内でどんな活動をしているか。
 五感ということでいえば、たとえば耳で周りの音を聴くということではないだろうか。 

 あるいは、
 電気やガス灯のない時代、人々が一日の半分近くを過ごす夜の時間帯、もっとも敏感だった感覚器官といえば、それはやはり聴覚だったのではないだろうか。


 聴くという営みの根源にあるものを探ってみたい。その延長線上に、おそらく音楽はあり得たのだから。

ああ無情

 自分のやってきた勉強、研究じみたものが、結局、ものにならないということに薄々気づいて、気づいたところで他に打ち込めるものなどとうになく、ただ日々の張り合いがなくなるだけであり、そうした堂々巡りの末に、再びまた書物に向かう。
 そんな人生。



 夏が終わる。
 
 
 自分の人生でなにが喜びなのだろうか。