大阪大学21世紀COEプログラム『インターフェイスの人文学』から

 『冒険・きしみあう知』より(標記一部変更)

  いま、社会はなぜ人文学の視点を必要としているか

 環境破壊、生命操作、医療過誤、介護問題、食品の安全、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立……。これら現代社会が抱え込んだ諸問題は、もはやかつてのように政治・経済レベルだけで対応できることがらではありません。また特定の地域や国家に限定して処理しうる問題でもありません。これらの問題は小手先の制度改革で解決できるものではなく、環境、生命、病、老い、食、教育、家族、性、障害、民族についてのわたしたちこれまでの考え方(フィロソフィー)そのものをその根もとから洗いなおすことを迫るものです。いいかえますと、わたしたちの社会と文化のもっとも基本的なかたち、それがいまあらためて問いただされているということです。たとえば、生命技術ひとつとっても、再生医療などそこから開ける技術的な可能性とともに、そもそも生命を操作するということがどこまで許されるのか、許される部分があるとしても、そのとき「いのちの尊厳」や安全を確保するためにどのような策が講じられねばならないかが、問われなければなりません。これは生命倫理とよばれる議論ですが、それはしかし現在のところ、あまりにも急速に進化するその技術とそれがひきおこす事態に、ルールや手続きへの問いというかたちで、後追い的に、あるいは防波堤として、対処しているにすぎません。わたしたちにいまもっとも必要なのは、先端的な生命技術が開く未曾有の事態を前にして、その是非を正しく判断できる視点を手に入れるということです。そのためにとくに必要なのは、歴史と異文化をじっくり参照するということです。なぜなら、わたしたちは自由に考えているようで、じつはひとつの時代に支配的な考え方に囚われていることが多いからです。狭い洞窟のなかでわいわい議論していることが多いからです。

 「いのち」について考えるとき、たとえば過去のさまざまな時代に「いのち」がどのようにたいせつに、あるいはぞんざいに扱われてきたかを知らなくてはなりません。別の地域では「いのち」がどう理解されているかを知らなくてはなりません。「いのち」の歓びと苦しみが、絵や音楽や舞踊や文芸のかたちでどのように表現されてきたかも知らなくてはなりません。誕生や育児や看病や介護や葬送の習俗が、どのような「いのち」の思想をもとに組み立てられていたかを知らなくてはなりません。これらは、歴史学民俗学の、社会学や人類学の、美学や文学の、哲学や宗教学の仕事です。つまり、人文・社会科学の仕事です。そういう過去の「いのち」の習俗、他の文化の「いのち」の知を検証するなかではじめて、わたしたちは現在の生命技術の可能性と問題性とを正確に見究めることができるようになるのです。

(中略)

 そう、≪人文学≫とは精密で深い教養のことなのです。人文・社会科学者のみならず自然科学者すらもが、その知的いとなみの底に湛えていなければならない教養のことなのです。別の言葉でいえば、過去の人びと、他の地域の人びとのほうから自分を見ることのできる、そういう感受性をもった知のことなのです。